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私は、結婚するためにクグルクトゥック村に戻ってきてからずっと、母と親子断絶状態になっていました。
母のことを憎いとさえ思い、もう二度と会えなくてもいいと覚悟を決めて戻ってはきたものの、日本の家族のことは気になります。
時々、父や妹とは連絡をとっていましたが、母とは一度も口を聞いていませんでした。
太郎を妊娠したことが分かった時、私は日本に電話をかけました。
電話に出たのは父でした。
「妊娠したよ」と告げると父は「そうか」とだけ言って、あとはふた言み言話して、それ以上何も言いませんでした。
もちろん、母は私と話そうとはしませんでした。
私は子供が生まれることを父が喜んでくれると思っていたけれど、とても悲しそうに「そうか」と言ったのを聞いて戸惑いを覚えました。
父と母にとったら太郎は初めての孫です。
二人とも子供が大好きなのに、会いたいと思っても自分の孫に会いに行くこともできません。
二人にとったらクグルクトゥック村は、遠い遠い北の果ての、雪の女王でも住んでいるような、到底訪れることのできない見知らぬ地でした。
父に電話してからしばらくたったある日、日本から小包がとどきました。
中を開けて見ると、赤ちゃんの肌着とおむつ、犬印のさらしとマタニティードレス、そしてお守りと母からの手紙が入っていました。
今でもこうして書いていると涙が出そうになりますが、母からの手紙には、母の私への気持が何枚もの便せんに書かれていました。
かたくなに私と話すことを拒んでいた母。
小さい頃から私は何でも自分で要領よくやっていたので
母に親身になって相談にのってもらったり、母から優しい言葉をかけてもらったりした記憶がなかったのですが
手紙には、母の私を思いやる気持が書かれていて、母の愛情がひしひしと伝わってきました。
私は小さい頃からずっと、母に私のことを心から心配してもらったり、優しい言葉をかけてもらいたかったんですね、娘として。
私は手紙を読みながら泣き崩れ、読み終わるとすぐに日本へ電話をかけました。
すると、その時「もしもし」と言って出てくれたのは、いつもは絶対に電話に出てくれなかった母でした。
私は母に泣きながら「ありがとうお母さん。ありがとう」と感謝の気持を伝えました。
母は初めて、自分の口から、どれだけ私のことを思っているかを伝えてくれました。
「子はかすがい」と言いますが、太郎は母と私の中の大きな大きな氷の塊を溶かし、二人をまたつなぎ合わせてくれました。
-28-につづく
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